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1909年
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イタリア人の父とスイス人の母の次男としてイタリアのソンドリオ(Sondrio)に生まれる。1914年に父急逝、母は二人の息子と実家のスイスに戻り、スイス国籍を持つことになる。1918年に 母再婚。祖父の家を離れ新しい家族と生活。
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1924年
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ザンクト・ガレン(St.Gallen)の カントン スクール(Kanton school)に進学。
この頃、旧市街の修道院の近くで木彫家の工房を見つけ、その作業に魅せられ、以来時間が出来た時はこの工房に入り浸り、木彫りのテクニックの習得に励んだ。
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1925
-28年
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秋、カントン スクールを卒業し美術学校に入学。
1927年から28年、チューリッヒの美術学校で彫刻家オットー・ミュンク(Otto Muench)の生徒となり、彫刻を学ぶ。
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1929年
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パリに遊学。現地で哲学を学ぶ若い女子学生のグレーテル・リヒテンエガー(Gretel Lichtenegger)から音楽、文学などの影響を受けた。後の氏の作風に強い影響を与えたルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)の思想も彼女を通して学んだ。
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1930年
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7月帰国。生計をたてるため写真レポーターを目ざし、夏、ドイツを経由しウィーンへ取材の旅。その後、南伊の各都市で取材旅行で遭遇した様々な困難を若さと情熱、才能で切り抜け経験を重ねた。
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1931年
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グレーテルと結婚。長男ペーター(Peter)出生。スイス・ラジオ新聞の写真頁の編集者として定職を得た。
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1932年
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初めて家具制作。息子のためのゆりかご(写真-1)を作った。側面を飾った牧歌的なレリーフが印象的な力作。
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1933
-35年
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スポーツ報道誌のカメラマンやスイス交通センターの職員として活動。ハードな日々。
1935年、夏に工房付きの住まいをチューリッヒに見つけ家族もチューリッヒ に移動。
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1936年
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長女 エヴァ(Eva)出生。その3ヶ月後、妻グレーテル は病死。やむなく郊外のオーバーシュタムハイム(Oberstammheim)へ移転。
スイスのハイマートヴェルク(Heimatwerk)社からスイス各地方の祭りの衣装のすべてを撮影、記録することを委託され再びスイス各地へ出かける日々が増えた。
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1937年
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民族衣装を着て唄う祭りで知り合ったエルザ・ペータ(Elsa Peter)と再婚。
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1939年
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第二次大戦勃発。兵役義務のあるすべての人が召集され、氏も時間の許す限り国のために働き、報道写真家としての仕事は減った。
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1940年
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チューリッヒで制作活動を始める。家族と一緒にチューリッヒへ転居。
次男クリストフ(Christoph )誕生。翌々年には、次女レジーナ(Regina)誕生。
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1944年
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チューリッヒの旧市街に小さい工房と店のついた家を見つけ独立。近くの木工所のレンタルの機械も利用し、自分の工房にも必要な工具を揃え制作に専念、自分の店を持った。
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1945年
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チューリッヒ市立の恵まれない子供たちのためのキンダーハイムの建設に参与。プランからすべての家具(写真右下)と玩具の製作、庭に設置する大きな木馬(写真2)などを手掛け、評判になる。
5月、街中の教会の鐘が鳴り響き、戦争終息が伝えられた。
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1946年
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スイス最大の玩具販売会社カール・ウェーバー(Carl Weber)社から大量に注文を受ける。しかし手作りの為、生産が間に合わず注文の一部だけを納入。すでに量産で価格を下げる時代になっていたが、氏は手作りにこだわり続けた。
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1951年
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スイス バーゼル(Basel)の見本市(MUBA)に初参加。ヴィターリの玩具を扱う小売店が増えた。短編ドキュメント映画の製作にカメラマンとして参与。
この年、バウハウスのマイスターで、チューリッヒのの工芸美術館(現在の市立デザイン美術館の前身)の館長でもあったヨハネス・イッテン(Johannes Itten)は世界から集めた統括的な玩具の展覧会を主宰。会場でヴィターリ氏の玩具は特別のケースで展示された。
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1952年
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マックス・ビル(Max Bill)が『 FORM 』 という雑誌のなかでヴィターリ氏の玩具を賞讃。
これがきっかけとなりニューヨークで当時玩具の画期的なセレクトショップとして注目を浴びていたクリエイティブ・プレイシングス(Creative Playthings)社(以下CP社)からの引き合いがあった。
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1953
-54年
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CP社の招聘を受け始めてニューヨークへ。54年春、CP社との仕事がスタート。ニューヨークの玩具見本市でヴィターリの新作シリーズが展示された。この時期プログラムに加えたろくろをつかわないPlayformシリーズは、商業的にも成功。
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1954
-55年
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1954年と55年にはバーゼルの見本市(MUBA)でPlayformシリーズを展示。また1954年にウルム(Ulm)の美術大学と共同で実施した玩具展はドイツ各地や近隣の国を巡回し、spiel-gut (「子供の遊びと玩具審議会」詳しくはBECK社のページ)の組織が生まれるきっかけとなった。
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1956年
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チューリッヒの郊外のタールヴィル(Thalwil)に家族のための家を建てその中に設備の整った工房も作った。優れた職人にも恵まれ、納得できる見事な出来映えの商品が生まれた。氏はこの工房のほかにチューリッヒの街中に見本や商品の並ぶ二つの店をもち、店は長男のペーターが管理した。
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1961
−68年
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この8年間、クルト・ネフ(Kurt Naef)氏と一緒にバーゼルで仕事をした。ネフ氏はスイスやドイツの顧客を回り商品を広めたので、販売はネフ氏に委ね、生産にのみ力を入れることができた。人件費の低いイタリアのソルニコ(Sornico)村に工房をつくり半完成品を生産。タールヴィルでは信頼する職人・オットー・ミューラー(Otto Mueller)が仕上げを受け持った。それらは工芸品のように格調が高いものだった。ソルニコでの仕事は5年続いた。
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1967年
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ドイツで一番大きい出版社オット・マイヤー(Otto Maier Verlag)社、(現在のRavensburger社、以下OMV社)の絵本や玩具を扱う部署から、木製玩具部門を作りたいというオファーを受け、ヴィターリ氏はネフ社をはなれOMV社と組む決意をした。
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1969年
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ニュールンベルグの玩具見本市でOMV社のスタンドで初めてヴィターリ・シリーズが展示された。プログラムは乳児用、つみき、幼児用、人形の家などのカテゴリーなどに分けられ、すべてのプログラムがspiel gut に選定された。
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1969 −71年
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1969年から70年にかけて、OMV社の依頼でプラスティック玩具のデザインを手がける。 また2cm以上の厚みのあるブナ材を使用した組み合わせて動物を作るスタンド・パズルを提案。商品化されたのは 牛、馬、猫、ぞう、くま、きりん など。1年後には木と4匹のくま、らくだ、4人家族なども追加。このスタンドシリーズはすぐ香港と韓国でコピーされ、ニュールンベルグの見本市で他社のブースで展示され話題となった。
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1972年
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ジャン・ピアジェ教育論に基づいて玩具と教材を考えるグループに参加。
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1972
−75年
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FAO(Food and Agriculture Organization of United Nations)とスイスの支援組織の依頼でコスタリカへ。現地の美しい材木の利用や輸出の促進を助けるのがその任務。
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1975年
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ワシントンのスイス大使館の要請をうけ、建築家、オイゲン・マイヤー(Eugen Meier)氏と共にアメリカの美術館を巡回するスイスの玩具の展覧会(Toys from Switzerland)の企画構成にかかわる。氏が選んだのは、農家の子どもが遊んだ手作りの民芸玩具なども含む、新旧さまざまな玩具全般。ワシントンのスイス大使館で初公開後、アメリカ各地を巡回。メディアにも好意的に取り上げられ、好評のなか全日程を終えた。
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1975年
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OMV社は、生産コストがかかり過ぎ採算が合わないとの理由でヴィターリ・シリーズをプログラムからはずすことを決定。翌年生産も中止された。
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1978年
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秋、マンハッタンにアトリエ付きの小さな家を借りた。もう一度自分が本来目ざした彫刻家の道を極めたいという思いがあった。
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1980年
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12月、妻エルザ、突然の病死。このことでタールヴィルの工房は閉鎖、翌年の1月、再びニューヨークに戻ったヴィターリ氏は制作に没頭した。
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1984年
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チュリッヒ市主催で75歳のヴィターリ氏を祝う回顧展が市内の美術館(Wohnmuseum Baerengasse)で開催された。
若いドイツのシャーフ夫妻(Schaaf)がヴィターリのシリーズを復刻し世に提供したいと申し出てきた。彼らは20点を選択し、充実したプログラムを構成。この年から再びニュールンベルグの玩具見本市でヴィターリ・シリーズが入手可能になった。
アドラー(Heinz Adler)社長夫妻の招待でドイツのケテ・クルーゼ(kaethe Kruse)社をドナウヴェルト(Donauwoerth)市に訪ね夏の休暇を過ごし、これを機にケテ・クルーゼ社のためにデザインしたタオル地を使ったクマやアヒルなどの製品化が実現。
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1986年
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40年前、大量注文をもらったカール・ウェーバー社の二代目フランツ・カール・ウェーバー(Franz Carl Weber)氏と、ニュールンベルグ玩具見本市のケテ・クルーゼのスタンドで出会い、再びウェ−バ−社との交流がはじまった。
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1992年
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ヴィターリ氏は自身が所有する玩具のすべてをチューリッヒの市立デザイン美術館 (Museum fuer Gestaltung)に寄贈。その数は250種、350点に及ぶ。
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1994年
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作品集『ANTONIO VITALI』(ドイツWeingarten社刊 現在は絶版)が出版される。
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1995年
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アメリカより帰国。ニューヨークで一緒に暮らしていた画家のライスさん(Resly Reis)とともに、チューリッヒ市郊外で静かな日々をすごした。
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1996年
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シャーフ氏はヴィターリ・シリーズの生産をプログラムから除去する決断をした。ろくろ職人の老齢化や安全基準が厳格になり、労務管理のための設備投資がかかりすぎること、など、社会的に安価な商品に需要がながれる傾向が強くなったこと等が、その主な理由。
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1999年
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90歳を記念しての展覧会がチューリッヒのデザイン美術館で開催された。
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2008年
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4月ヴィターリ氏永遠の眠りに。7月ライスさんはヴィターリ氏の遺志に従い、玩具の生産権の移譲先にアトリエ ニキティキ を選んだ。
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2009年
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1969〜75年に当時のオットー・マイヤー社(現ラベンスバーガー社)が生産していた動物パズルのうち、きりん・ぞう・うしの3種を、34年ぶりに復刻。DECORのはめ絵と同じ工房で作られている。(RAVENSBURGER時代のVITALI製品については、productのページからRAVENSBURGER TOYS VITALIへ。→●)
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2013年
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動物パズルのうち、新たに落ち着いた色味のうまと、足の曲線が印象的なねこが復刻された。
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