VITALI TITLE  

TOYS VITALI/ヴィターリの玩具
スイス

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 ・ヴィターリの玩具のはじまり  

 ・ヴィターリの玩具の歴史  

 ・ニキティキとヴィターリの玩具  

 ・ヴィターリ氏 語録

 ・ヴィターリの玩具の変遷 


表記について
2009.12追記

これまでVITALIを表記する際、ニキティキでは「ヴィタリィ」、EDU-TOY などでは「ヴィタリ」、1965年発行の美術手帖で
柳宗理氏がはじめて紹介した時は「ビッターリ」といくつかの読み方があり、混在していました。2009年10月にスイスにて
VITALI作品を収蔵する博物館関係者や、VITALI氏のパートナーのライス氏と協議を行い、今後ニキティキは発音に則した表記
として「ヴィターリ」を採用する事になりました。何卒よろしくお願いいたします。


ヴィターリの玩具 (Toys Vitali) のはじまり

スイス・チューリッヒの旧市街に小さい工房と店をオープンした1944年が、玩具を販売するようになったはじまりですが、氏の玩具作りは1932年、息子ぺ−タ−のためのゆりかごからはじまったと言えるでしょう。
アントニオ・ヴィターリ(Antonio Vitali)氏は、1909年9月 イタリア人の父とスイス人の母の次男として、スイスとの国境に近いイタリアのソンドリオ(Sondrio)で生まれました。1924年15才のころ、旧市街の修道院の近くで木彫家の工房を見つけたヴィターリ少年は、その作業に魅せられ何時間も眺めていました。その様子に気付いた職人さんから中に入るよう勧められ、それ以来自由な時間が出来た時はいつもこの工房で木彫技術の習得に励んだことがヴィターリ氏のもの作りの原点となりました。
のちにチューリッヒでもっとも有名だった彫刻家オットー・ミュンク(Otto Muench)の生徒となり、チューリッヒの美術学校で学んだヴィターリ氏は、その後、生活のため報道写真を撮る仕事などをしますが、彫刻家への夢は捨て切れずにいました。
第二次世界大戦前後は家具店のために家具のデザインなどをし、この時期には自分の子どものためのおもちゃも何点か制作。戦後、玩具メーカーとして仕事が軌道に乗り、1951年、初めてスイス バーゼル(Basel)の見本市 MUBA に参加。翌年、マックス・ビル(Max Bill)が『FORM』というデザインの本でヴィターリ氏の玩具2点をとりあげ賞賛。この本がきっかけとなり、当時ニューヨークにあった玩具のセレクトショップ、クリエイティブ プレイシングス(Creative Playthings)社との仕事がはじまります。その後、1961年にはネフ(Naef)社、1967年にはオットー・マイヤー(Otto Maier Verlag、現在のRavensburger社)社など、ヴィターリ氏の玩具はいくつかのメーカーを変遷することになります。生産に手がかかり価格が高くなる一方のヴィターリ・シリーズは1984〜1998年(アイテムの一つ、ベビークラングは2003年まで)のシャーフ(Schaaf)社を最後に、生産されていません。その作品は、彫刻家らしい洗練されたフォルムの中に、子どもたちへのやさしさが感じられる、木の動物やひとなど。現在ヴィターリ氏の玩具は、コレクター品としてオークション等に出品される事はありますが、その復刻を望むファンは多くいるようです。自身が所有していた作品300点以上を、すべて寄贈した美術館での100歳記念展覧会の企画が始まった矢先の2008年4月、ヴィターリ氏は98歳でその生涯を静かに閉じました。

2015.06追記 
ヴィターリ氏のデザインで、1969〜75年に当時のオットー・マイヤー社(現ラベンスバーガー社)が生産していた動物パズルの、うし・ぞう・きりんが、2009年に34年ぶりに復刻されました。厚み2.5cmのブナ材から切り抜かれています。2013年に、新たに落ち着いた色味のうまと、足の曲線が印象的なねこが加わりました。DECOR社のはめ絵と同じ工房で制作されています。


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1 工房でのヴィターリ氏 1970年代 *
2 ゾウの親子
3 子どもたちのために作ったハンペルマン 1950年代*
4 ヴィターリ氏に似ている木の小人*


*印は『Antonio Vitali』1994年 Kunstverlag Weingarten社刊より






ヴィターリの玩具 (Toys Vitali) の歴史

1909年

イタリア人の父とスイス人の母の次男としてイタリアのソンドリオ(Sondrio)に生まれる。1914年に父急逝、母は二人の息子と実家のスイスに戻り、スイス国籍を持つことになる。1918年に 母再婚。祖父の家を離れ新しい家族と生活。

 

1924年

ザンクト・ガレン(St.Gallen)の カントン スクール(Kanton school)に進学。
この頃、旧市街の修道院の近くで木彫家の工房を見つけ、その作業に魅せられ、以来時間が出来た時はこの工房に入り浸り、木彫りのテクニックの習得に励んだ。

1925
 -28年

秋、カントン スクールを卒業し美術学校に入学。
1927年から28年、チューリッヒの美術学校で彫刻家オットー・ミュンク(Otto Muench)の生徒となり、彫刻を学ぶ。

1929年

パリに遊学。現地で哲学を学ぶ若い女子学生のグレーテル・リヒテンエガー(Gretel Lichtenegger)から音楽、文学などの影響を受けた。後の氏の作風に強い影響を与えたルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)の思想も彼女を通して学んだ。

1930年

7月帰国。生計をたてるため写真レポーターを目ざし、夏、ドイツを経由しウィーンへ取材の旅。その後、南伊の各都市で取材旅行で遭遇した様々な困難を若さと情熱、才能で切り抜け経験を重ねた。

1931年

グレーテルと結婚。長男ペーター(Peter)出生。スイス・ラジオ新聞の写真頁の編集者として定職を得た。

1932年

初めて家具制作。息子のためのゆりかご(写真-1)を作った。側面を飾った牧歌的なレリーフが印象的な力作。

1933
 -35年

スポーツ報道誌のカメラマンやスイス交通センターの職員として活動。ハードな日々。
1935年、夏に工房付きの住まいをチューリッヒに見つけ家族もチューリッヒ に移動。

1936年

長女 エヴァ(Eva)出生。その3ヶ月後、妻グレーテル は病死。やむなく郊外のオーバーシュタムハイム(Oberstammheim)へ移転。
スイスのハイマートヴェルク(Heimatwerk)社からスイス各地方の祭りの衣装のすべてを撮影、記録することを委託され再びスイス各地へ出かける日々が増えた。

1937年

民族衣装を着て唄う祭りで知り合ったエルザ・ペータ(Elsa Peter)と再婚。

1939年

第二次大戦勃発。兵役義務のあるすべての人が召集され、氏も時間の許す限り国のために働き、報道写真家としての仕事は減った。

1940年

チューリッヒで制作活動を始める。家族と一緒にチューリッヒへ転居。
次男クリストフ(Christoph )誕生。翌々年には、次女レジーナ(Regina)誕生。

1944年

チューリッヒの旧市街に小さい工房と店のついた家を見つけ独立。近くの木工所のレンタルの機械も利用し、自分の工房にも必要な工具を揃え制作に専念、自分の店を持った。

1945年

チューリッヒ市立の恵まれない子供たちのためのキンダーハイムの建設に参与。プランからすべての家具(写真右下)と玩具の製作、庭に設置する大きな木馬(写真2)などを手掛け、評判になる。
5月、街中の教会の鐘が鳴り響き、戦争終息が伝えられた。



1946年

スイス最大の玩具販売会社カール・ウェーバー(Carl Weber)社から大量に注文を受ける。しかし手作りの為、生産が間に合わず注文の一部だけを納入。すでに量産で価格を下げる時代になっていたが、氏は手作りにこだわり続けた。

1951年

スイス バーゼル(Basel)の見本市(MUBA)に初参加。ヴィターリの玩具を扱う小売店が増えた。短編ドキュメント映画の製作にカメラマンとして参与。
この年、バウハウスのマイスターで、チューリッヒのの工芸美術館(現在の市立デザイン美術館の前身)の館長でもあったヨハネス・イッテン(Johannes Itten)は世界から集めた統括的な玩具の展覧会を主宰。会場でヴィターリ氏の玩具は特別のケースで展示された。

1952年

マックス・ビル(Max Bill)が『 FORM 』 という雑誌のなかでヴィターリ氏の玩具を賞讃。
これがきっかけとなりニューヨークで当時玩具の画期的なセレクトショップとして注目を浴びていたクリエイティブ・プレイシングス(Creative Playthings)社(以下CP社)からの引き合いがあった。

1953
 -54年

CP社の招聘を受け始めてニューヨークへ。54年春、CP社との仕事がスタート。ニューヨークの玩具見本市でヴィターリの新作シリーズが展示された。この時期プログラムに加えたろくろをつかわないPlayformシリーズは、商業的にも成功。

1954
 -55年

1954年と55年にはバーゼルの見本市(MUBA)でPlayformシリーズを展示。また1954年にウルム(Ulm)の美術大学と共同で実施した玩具展はドイツ各地や近隣の国を巡回し、spiel-gut (「子供の遊びと玩具審議会」詳しくはBECK社のページ)の組織が生まれるきっかけとなった。

1956年

チューリッヒの郊外のタールヴィル(Thalwil)に家族のための家を建てその中に設備の整った工房も作った。優れた職人にも恵まれ、納得できる見事な出来映えの商品が生まれた。氏はこの工房のほかにチューリッヒの街中に見本や商品の並ぶ二つの店をもち、店は長男のペーターが管理した。

1961
 −68年

この8年間、クルト・ネフ(Kurt Naef)氏と一緒にバーゼルで仕事をした。ネフ氏はスイスやドイツの顧客を回り商品を広めたので、販売はネフ氏に委ね、生産にのみ力を入れることができた。人件費の低いイタリアのソルニコ(Sornico)村に工房をつくり半完成品を生産。タールヴィルでは信頼する職人・オットー・ミューラー(Otto Mueller)が仕上げを受け持った。それらは工芸品のように格調が高いものだった。ソルニコでの仕事は5年続いた。

1967年

ドイツで一番大きい出版社オット・マイヤー(Otto Maier Verlag)社、(現在のRavensburger社、以下OMV社)の絵本や玩具を扱う部署から、木製玩具部門を作りたいというオファーを受け、ヴィターリ氏はネフ社をはなれOMV社と組む決意をした。

1969年

ニュールンベルグの玩具見本市でOMV社のスタンドで初めてヴィターリ・シリーズが展示された。プログラムは乳児用、つみき、幼児用、人形の家などのカテゴリーなどに分けられ、すべてのプログラムがspiel gut に選定された。

1969
 −71年

1969年から70年にかけて、OMV社の依頼でプラスティック玩具のデザインを手がける。 また2cm以上の厚みのあるブナ材を使用した組み合わせて動物を作るスタンド・パズルを提案。商品化されたのは 牛、馬、猫、ぞう、くま、きりん など。1年後には木と4匹のくま、らくだ、4人家族なども追加。このスタンドシリーズはすぐ香港と韓国でコピーされ、ニュールンベルグの見本市で他社のブースで展示され話題となった。

1972年

ジャン・ピアジェ教育論に基づいて玩具と教材を考えるグループに参加。

1972
 −75年

FAO(Food and Agriculture Organization of United Nations)とスイスの支援組織の依頼でコスタリカへ。現地の美しい材木の利用や輸出の促進を助けるのがその任務。

1975年

ワシントンのスイス大使館の要請をうけ、建築家、オイゲン・マイヤー(Eugen Meier)氏と共にアメリカの美術館を巡回するスイスの玩具の展覧会(Toys from Switzerland)の企画構成にかかわる。氏が選んだのは、農家の子どもが遊んだ手作りの民芸玩具なども含む、新旧さまざまな玩具全般。ワシントンのスイス大使館で初公開後、アメリカ各地を巡回。メディアにも好意的に取り上げられ、好評のなか全日程を終えた。

1975年

OMV社は、生産コストがかかり過ぎ採算が合わないとの理由でヴィターリ・シリーズをプログラムからはずすことを決定。翌年生産も中止された。

1978年

秋、マンハッタンにアトリエ付きの小さな家を借りた。もう一度自分が本来目ざした彫刻家の道を極めたいという思いがあった。

1980年

12月、妻エルザ、突然の病死。このことでタールヴィルの工房は閉鎖、翌年の1月、再びニューヨークに戻ったヴィターリ氏は制作に没頭した。

1984年

チュリッヒ市主催で75歳のヴィターリ氏を祝う回顧展が市内の美術館(Wohnmuseum Baerengasse)で開催された。
若いドイツのシャーフ夫妻(Schaaf)がヴィターリのシリーズを復刻し世に提供したいと申し出てきた。彼らは20点を選択し、充実したプログラムを構成。この年から再びニュールンベルグの玩具見本市でヴィターリ・シリーズが入手可能になった。

アドラー(Heinz Adler)社長夫妻の招待でドイツのケテ・クルーゼ(kaethe Kruse)社をドナウヴェルト(Donauwoerth)市に訪ね夏の休暇を過ごし、これを機にケテ・クルーゼ社のためにデザインしたタオル地を使ったクマやアヒルなどの製品化が実現。

1986年

40年前、大量注文をもらったカール・ウェーバー社の二代目フランツ・カール・ウェーバー(Franz Carl Weber)氏と、ニュールンベルグ玩具見本市のケテ・クルーゼのスタンドで出会い、再びウェ−バ−社との交流がはじまった。

1992年

ヴィターリ氏は自身が所有する玩具のすべてをチューリッヒの市立デザイン美術館 (Museum fuer Gestaltung)に寄贈。その数は250種、350点に及ぶ。

1994年

作品集『ANTONIO VITALI』(ドイツWeingarten社刊 現在は絶版)が出版される。

1995年

アメリカより帰国。ニューヨークで一緒に暮らしていた画家のライスさん(Resly Reis)とともに、チューリッヒ市郊外で静かな日々をすごした。

1996年

シャーフ氏はヴィターリ・シリーズの生産をプログラムから除去する決断をした。ろくろ職人の老齢化や安全基準が厳格になり、労務管理のための設備投資がかかりすぎること、など、社会的に安価な商品に需要がながれる傾向が強くなったこと等が、その主な理由。

1999年

90歳を記念しての展覧会がチューリッヒのデザイン美術館で開催された。

2008年

4月ヴィターリ氏永遠の眠りに。7月ライスさんはヴィターリ氏の遺志に従い、玩具の生産権の移譲先にアトリエ ニキティキ を選んだ。

2009年

1969〜75年に当時のオットー・マイヤー社(現ラベンスバーガー社)が生産していた動物パズルのうち、きりん・ぞう・うしの3種を、34年ぶりに復刻。DECORのはめ絵と同じ工房で作られている。(RAVENSBURGER時代のVITALI製品については、productのページからRAVENSBURGER TOYS VITALIへ。→

2013年

動物パズルのうち、新たに落ち着いた色味のうまと、足の曲線が印象的なねこが復刻された。






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1 息子ぺ−タ−のために作ったゆりかご 1932年*
2 キンダーハイムの遊具 1945年*
3 CARL WEBER社のカタログ 1950年代*
4 作品と金型*
5 1999年展覧会会場風景
6 ケテ・クル−ゼ社で製作したタオル地のあひる*
7 フランツ・カール・ウェーバー氏とヴィターリ氏、1988年見本市会場にて
8 ヴィターリ氏とライスさん チューリッヒの自宅にて 2004年
9 2009年と2013に復刻された、動物パズル


*印は『Antonio Vitali』1994年 Kunstverlag Weingarten社刊より

ニキティキとヴィターリの玩具 (Toys Vitali)



スイスの玩具デザイナー アントニオ・ヴィターリ(Antonio Vitali)氏は2008年4月10日スイス・チューリッヒで静かに98歳の生涯を閉じました。彫刻家としても多くの作品を残したヴィターリ氏ですが、彼が一番力を入れて関ったのはやはり子どもたちのための玩具作りでした。息子のために作ったゆりかごや木馬や車が玩具作家の道を選ぶきっかけになりました。

チューリッヒ市は名をなした芸術家や将来を期待される若い芸術家達に、市が所有する200年以上の歴史をもつ瀟洒な建物を提供しています。ヴィターリ氏の最後のお住まいはその建物の2階にありました。裏に広がる広い庭園、窓から見える大きな樹木、時たま1階から聞こえてくる弦楽器の音、表通りを走る市電のかすかな響き、外の世界から隔絶された静かな静かなこの建物の中でヴィターリ氏はパートナーの画家 ライス(Resley Reis)さんと二人でゆったりと晩年の10年余を過ごされました。毎回、お訪ねするたびに、ベジタリアンのお二人のストイックな生活ぶりに、感銘をうけました。

ヴィターリ氏が手がけた玩具のほとんどは木製。なかでもろくろで切り出した丸みをおびた狐や犬やあひるなどは彼の独特の世界。手で触ってその丸みと重量感を味わってほしい。オブジェが与えるぬくもり、手の中で慈しむことで得られる心の安定こそが子どもが必要とするもの、と氏はよく話していました。

ニキティキとヴィターリの玩具との出会いはスイスのネフ(Naef) 社との仕事が始まった1971年という事になります。1950年代、玩具を作り始めたヴィターリ氏は、仕事を始めたばかりのネフ社の創始者、クルト・ネフ(Kurt Naef)氏と手を組む機会に恵まれました。まだネフ社が小さい会社だった1950年代の後半、馬小屋を改造した工場で生産した玩具をネフ社が世に出し始めた頃です。

その後ネフ社が初めて作ったA版全紙の折りたたみ式カタログにもヴィターリ氏の作品が何点か見られます。でも才能に恵まれた個性の強い芸術家の二人、ネフ氏とヴィターリ氏はやがて仕事の方針で意見があわず、別々の道を歩き始めることになります。ニキティキがネフ社の玩具を日本に輸入したいとネフ社を訪れた1970年にはすでにヴィターリ氏の作品はネフ社のプログラムに数点残っていただけでした。そして在庫がなくなると再生産はなされず、いつしかネフのプログラムから消えてゆきました。

1969年、ニュールンベルグのオットー・マイヤー社のスタンドで初めてヴィターリ・シリーズが展示されました。ニキティキはヴィターリ氏の玩具シリーズを輸入したかったのですが、なかなか勇気が持てずやっと1974年、オットーマイヤー(Otto Maier Verlag)社、(現在のRavensburger社*以下OMV社)のスタンドを訪ねます。絵本、パズル、ゲームのメーカーとしても力を持っているドイツ最大の出版社なので見本市のブースも並外れて大きく、入ってゆくだけでも勇気がいりましたが、ヴィターリ氏の玩具に惹かれたニキティキは商談の機会を得て、シリーズの輸入をお願いしたのです。
大手のOMV社が扱うため、当時、ヴィターリ・シリーズも量産のシステムがすでに構築されていました。そして、手のかかる工程を踏んで生産された商品の仕上がり具合いは、厳しい完成度を求めるヴィターリさんを一応満足させる高いレベルでした。しかし理想を持って出発したオット・マイヤー社でしたが生産上の問題も多く、コストも高く販売数も思うように延びなかったためか、このシリーズは1975年にOMV社のプログラムからはずされることになります。
木製玩具が高価なのは、いつの時代もかわらないのですが、商品の回転がOMV社のスケールと資金繰りのテンポに合わなかったのが、手を引く原因になったのだと推測できます。
それから暫くの年月の間、ヴィターリさんの商品は市場から姿を消しました。ヴィターリ氏が家族と自費制作の形で生産しチューリッヒに店を作って販売したこともありましたが、いずれも採算が合わず良い結果をだせないまま撤退しています。

ある日、ドイツの若い情熱家の青年が、ヴィターリ氏の作品に感銘をうけ、どうしても自分がつくって子ども達に手渡したいと申し出てきました。彼の熱い思いにうたれ、ヴィターリ氏は、彼とライセンス契約を結び、生産を託します。このドイツ青年、シャーフ(Gert Schaaf)氏は、ろくろ細工の作品を中心に20点を選び、自分の工房で、ろくろ作業のできる職人とともに生産を始めます。こうして1984年のニュールンベルグの見本市では再びヴィターリ氏の玩具が並び、シャーフ社のスタンドで楽しそうに商品の説明をするヴィターリ氏の姿を見ることができました。こうしてヴィターリの玩具は再びニキティキを通して日本の市場に出現しました。しかし、やはり手のかかる生産工程のため玩具としてはどうしても高価なものになりました。良いものだから売れるはず、売れないのは売り方が悪いのでは?と作家ヴィターリ氏は主張しましたが、ヨーロッパだけでなく良い物に価値を見出す人達が比較的多い日本でも、顧客層は限られ売り上げは伸びず市場の現実は厳しいことを、作家、メーカー、販売者の三者が再認識させられました。
1998年、シャーフ氏とヴィターリ氏は15年間続いた契約を解消します。もし、ヴィターリ・シリーズの玩具が沢山売れていたら、契約は続いたのかもしれませんが、シャーフ社でろくろを回していた高齢の職人の後継者が見つからなかったこと、環境保全基準が厳しくなり、工房の空気清浄装置などを新しく設置する費用がかかりすぎることなどもその原因の一つとなり、再契約は実現しませんでした。こうして惜しまれながらヴィターリ氏の玩具は市場からすっかり姿を消したのです。シャーフ氏によると、ニキティキが総代理店とし良い結果を出せなかったにも拘わらず、15年の間にヴィターリTOY を一番多く購入したのは、日本だったとの事。この事実を通してニキティキは、良いものは売れるという論理が簡単には通用しないことを改めて認識しました。


*1993年 Otto Maier Verlag社は出版部門以外の事業、ゲームやパズル、玩具部門を別会社とした。新しい社名は ラベンスバーガー(Ravensburger)社。正式には Ravensburger Spieleverlag GmbH、出版事業はOtto Maier Verlag GmbH のまま現在に至っている。



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1 OMV社で制作されたプラスチック製ポニー・振ると音が出る
2 OMV社で制作された犬車
3 シャーフ社で製作された犬車





  

ヴィターリ氏 語録



見本市の会場で 1984年

●見本市にくるとおもちゃの種類の多いことにただただ驚く。どうしてこんなに多様な玩具が必要なのか?そしてこの中からよい玩具を見つけるのが、どうしてこんなにむずかしいのか?
●ここでみられるおもちゃの大半は、派手で子どもの目に付きやすいこと、玩具の動きや色が刺激的なこと、見かけより安価と思わせることを目的として作られている。そこには子どもの健全な発育への配慮は一切ない。
●親が子どものためにつくった手作りの玩具にはいいものが多い。なぜなら親は自分のこどもが今何を求めているか、どんな能力をもっているかとか、今、何を必要としているか一番良く知っているから。
ここに集まる大半のメーカーは、本当の意味で子どもが必要としているものを作っていない。
●私はどこまでも自分の信念をつらぬいて、子どもに与えたいものだけをつくってきたし、これからもそうしたい。


どのようなきっかけで玩具作りを職業とするようになったのか?

●私は若くして父親となり、自分の子どもに初めて与える玩具を街で探した。でも玩具店で手に入るのは押すとキィキイ変な音を出す形の悪いゴムで出来た動物やセルロイドでできたおしゃぶりのような俗悪なものばかり。自分の子どもには与えたくないと思った。そこで器用な手先を使って自分で作り始めたのが玩具へのかかわりのきっかけ。


病床で 2008年

●一人として同じ子どもはいない。みんなそれぞれ個性が違っている。でもどんな子どもでも、ひとたび丸みのある私の動物やひとを手のひらにおいてあげると、それをいつくしみ、心に安らぎを覚えてくれるはず。今ほど、丸みを帯びた私の作品を子ども達が必要としているときはない。
●どんなにデザインがよくても材質が悪かったり作りが雑だったらそれは良い玩具とはいえない。
●私は自分の作品の製品化にさいし、妥協を認めることはしてこなかった。
●サインは鉛筆でするのが一番。永く消えないで残るから。(自著にサインをしながら。)

*ポートレートは『Antonio Vitali』1994年 Kunstverlag Weingarten社刊より




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